御溝と水車

御溝と水車

蔵の裏手に流れる幅2mほどの水路。これは御溝(おみぞ)と呼ばれ、江戸時代に球磨川支流・万江川の水を相良氏の下屋敷(別荘)へ送るために造られたものです。  

現在でも農業用水や近隣住民のちょっとした洗いものに利用され、当蔵でもこの水を蒸留の冷やし水に利用しています。昔はここに水車がしつらえてあり、蔵内での仕込みや洗い水にも利用していたのですが、残念ながらこの水車、今はもうありません。

現在は道路の拡張とともに御溝沿いは裏通りとなりましたが、昔はこちら側が蔵の正面玄関。 

涼やかな風が抜けるこの通りは坂本・万江と人吉とを結ぶ街道であり、馬車やロバを曳いて街道を行き交う商人や農民の格好の憩いの場、そして近所の人たちが徳利片手に焼酎を買いに来る社交の場でもありました。 

御溝沿いの裏玄関には今もレンガ造りの煙突がそびえており、現役を退いた今も蔵のシンボルとして往時を偲ばせています。

土甕への想い

土甕への想い

歴史と伝統、昔ながらの「カメ仕込み」


当蔵で造られる焼酎、一次仕込みの工程にはすべて土甕(どがめ)が用いられます。

この土甕、江戸時代の末期から百数十年にわたって使われているものです。

 では、なぜ土甕を用いるのか、それは「土甕を用いることによって独特のまろやかさが得られる」から。理由としては、土甕にはセラミックの効果があることや甕の微小な隙間を通して焼酎が外気と呼吸すること。また甕の大きさ(500リットル程度)が1回の仕込み量に最適であるため味が良くなるのだ、という説もあります。当蔵ではこの甕を土中に1mほど埋め、気温の変化による影響をなるべく受けないようにしてあります。

 しかしこの甕、割れたり欠けたりで段々数が減っているのが実情。
これから先、どこまでもつかはわかりませんがもつ間は甕仕込みにこだわっていきます。

純米焼酎の郷・人吉球磨

人吉球磨は九州山地の只中にあり、これを源とする球磨川が永い年月をかけて、盆地を形成してきました。 
かつて700年近くにわたり相良家が領地としてきたこの地は、山深い地方であり、一見したところ稲作には向かないようにみえながら、実は谷間に隠れて多くの田圃があったのです。

相良藩では、そういった田圃(かくし田)で米を作らせ、その余剰米(一種の脱税ですね)で焼酎や清酒を造らせたわけです。藩をあげて酒造りを奨励していたこともあって、当蔵の創業当時は領内に蔵が170ほどもあったといわれています。太平洋戦争中から戦後にかけては、人吉球磨といえども米不足に陥り、芋焼酎が造られていた時期もあったそうですが、それ以外は一貫して米焼酎。

九州山地の伏流水と良質豊富な米、冬の冷涼な気候と三拍子揃ったこの地は、正に純米焼酎の郷なのです。

 現在、球磨焼酎には世界の産地指定がなされており、人吉・球磨で造られた純米焼酎でなければこの「球磨焼酎」という名を掲げることはできません。

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